カテゴリ:私のこと/思い出( 10 )
20年前の今日、父は現役サラリーマンのまま50代で他界しました。癌だったけれど病院にはたまに入院する程度で最期の日の2週間ほど前までは仕事にも通っていたので、急と言えば急な旅立ちでした。

その日の朝、母から電話で病院に来て欲しいと言われ・・・絶対一人でいられない駄々っ子のような父だったので、母がどうしても家にいなければならない用事がある日はそうやって呼びつけられることがたまにあったのですが・・・病院に向かう途中で、自分の爪のマニキュアの明るい色がなぜか気になって、駅の近くの化粧品屋で除光液を買ってマニキュアを落としながら病院へと歩いたのは、虫の知らせだったのでしょうか。

病院に着いてから父を看取るまでのことは・・・ちょっと痛いので触れないことにして、長い時間が経った今思っていること。

もちろん長生きして、楽隠居となって母と一緒に旅行でもして・・・それが一番よかったのでしょうが、「一家の主として君臨する、ちょっと怖い父」のイメージのまま去っていったのもまた父らしかったのかもしれないと・・・父が弱っていく姿をほとんど見ることなく見送ったのは、それはそれで幸せなことだったのかもしれないと・・・。

よくドラマなどで「死んでも君の心の中で生き続ける」なんていうセリフがあるけれど、あれってあながち間違ってはいないと思います。 触れたり、語り合ったり、一緒に笑ったりはしないけど、遠いところに住んでいるかのように、やっぱりどこかで生きているのだと思っています。 母もおそらく(無意識にでしょうが)そう思っているのでしょう。 たとえば父の好物を食べる時、仏前に供えずに食べちゃった後で「あっ、ヤバ!! おとうさん、怒ってるよね」とか、買い物に行って何かを選ぶ時にも「おとうさんならこっちだね」とか・・・。 思い出話ではなく、やっぱり父は今でも我が実家を仕切っている人なのだと感じています。そしてこれからもずっと、そうあり続けるのだと思います。


おとーさーん!! 見てる~~? 娘は相変わらず元気だよ~~! おかーさんも元気だよ~~!


・・・ファザコンと言われちゃうかな。
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by KURIinHK | 2005-07-22 09:16 | 私のこと/思い出
Sちゃん
母は6人兄弟の長女。 末っ子の叔母とはかなり歳が離れている。だからその末の叔母と私は13歳しか離れていない。 今までこの叔母を「叔母さん」と呼んだことがなくいつも「Sちゃん」と呼んでいる。 

私の幼稚園の卒園式は曾祖母(母の祖母)の通夜の日だった。女手が必要ということだったのだろうが、母はそちらの準備に駆り出され、私の卒園式には当時まだ19歳だったSちゃんが出席してくれた。
卒園式の後、茅ヶ崎から沼津へと二人きりで電車に乗って行ったのだが、今になって思うとどう考えても変な二人連れだったに違いない。 向かいに座ったおじさんがキャラメルをくれたことを何故か今でも覚えている。(この話をすると、母には「食べ物がからんでることはよく覚えてるのねぇ」とあきれられるのだが・・・)

その叔母が学生時代のお友達と一緒に香港に遊びに来る。今日から2泊3日の駈け足旅行。全行程フリーということでフルアテンドの予定。 お世話になってるSちゃんのため、気合をいれてお供いたしますとも!!

(今日・明日は更新&皆様のブログへのご挨拶はおさぼりいたします。)
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by KURIinHK | 2005-04-08 08:53 | 私のこと/思い出
丸一年
a0025439_11244785.jpg去年の今日4月2日は香港生活がスタートした日。
見知らぬ土地で、頼る人も愚痴る相手もほとんどいない駐在妻の生活も3度目となると余裕・・・と思いきや、一人でもウロチョロできてしまう性格が災いしてか、なかなか増えない友人、知人の数。家人は出張や接待で留守がち。ふと気がつくと日本語を発していない日が3日くらい続いたり、一週間連続一人ご飯とか・・・。
 
そんな中で始めたこのブログで多くの人と出会い、いつも地球のどこかで私の香港レポートを面白がってくれている人がいるということに喜びを感じ、ブログに記事をアップするために普段は気にも留めないものに目がいったり・・・。 ブログのおかげでこの一年間がずいぶん中身の濃い一年になったと言っても過言ではありません。

香港での生活があと何年続くのかはわかりませんが、これからも今まで同様、好奇心とチャレンジ精神でブログねたを探しつつ、楽しいものにしていきたいと思います。
 
ファイト~! おう!!
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by KURIinHK | 2005-04-02 11:27 | 私のこと/思い出
予期せぬ贈り物
昨日、外出から帰ってみると郵便受けにはEMSの不在配達票が。
「誰からかなあ??」と思いつつ、近くの郵便局まで受け取りに行ってみると


a0025439_1343864.jpgジャ~~ン!! バレンタインのプレゼント! ローゼンハイムのミルフィーユです。

以前ベルビー赤坂にあったローゼンハイムは、遠い昔のOL時代、周りにたいして美味しいものを売っていない場所に会社があったため、課の女性が赤坂見附の取引先に所用ででかけるとおやつに買ってきてくれて、皆で給湯室で食べた思い出があります。

と、話題がローゼンハイムにそれてしまいましたが・・・


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贈ってくださったのは元の勤め先でとてもよくしてくださったSさん(女性だよ~ん)。

友人達にメールでの近況報告より気軽にいろいろなものを見せられるからと始めたブログ。でもメッセージの送信相手を特定しないがゆえに、友人達からの反応はいつしかまったくなくなり(たまに読んではいるようですが)他のブロガーさんとのコミュニケーションが主体となってきて、最近では「友達にはすっかり忘れ去られてしまったのかも・・・」と思うこともあったのですが、「友達大好きっこ」の私を折りにふれ思い出してくださる人がいるのを改めて感じ、郵便局の帰り道にちょっとウルウルしてしまったのでした。

あま~いチョコレートとミルフィーユのさくさくを楽しみながら、胸の奥があったか~くなっている私です。
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by KURIinHK | 2005-02-16 13:46 | 私のこと/思い出
My First Live Christmas Tree
a0025439_1362348.jpgアメリカに行って初めての年に買った本物のクリスマスツリーです。 このツリーはその後玄関横の花壇に下ろしました。 今でもちゃんと育っているかしら?

クリスマスツリーを見上げているこの子は私の初の海外生活の泣き笑いをすべて見ていた愛猫のMike。通称「マイ君」。シャム猫(サイアミーズ)、この写真の頃で1歳ちょっとです。 家人の事務所の入っていたビルのオーナー(当時60歳前後)がガールフレンド(当時50代前半)と同居するにあたって、お互いの飼い猫があまりに仲が悪いというので追い出されそうになった可哀相な子です。しかも子猫の頃に酔っ払いに尻尾をつかまれ振り回されて、シッポが修復不能にボロボロになって切断を余儀なくされたという、悲惨な過去まで背負っております。 
もらって来る時に元の名前はマイクだと言われたという家人の言葉を信じてずっとマイクと呼んでいましたが、その後の元の飼い主との会話ではどうもマイクなどという名前ではなかった模様(本名不明)。 そうですよね。アメリカでMikeっていう名前、日本なら健一くんとか和夫さんっていう名前を猫につけるようなものですものね。

この頃はこんなにスマートだったのに、その後どんどん巨大化し、脱走して(普段は家の中にいました)庭を横切っている姿を見た飼い主(私)がタヌキがいる!と真剣に思い込むほど立派な後姿となりました。


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by KURIinHK | 2004-12-18 13:08 | 私のこと/思い出
母、帰国
a0025439_17342283.jpg今日、母が帰国の途につきました。一人でちゃんと家にたどり着いたことやら??

私は多分かなりのマザコンだと思う。 自分の母親はかなりエライと思っている。

実家の父はワンマン親父であった。 家のことは何もしない。 年末の大掃除の時季も一人のんびり第九を聴いているような人。 休日の昼食タイムに母が外出する時はテーブルの上にサンドイッチとティーバッグを入れたカップ、そしてお湯の入った魔法瓶をきちんと並べておかないと、自分でお昼ごはんを食べるということすらしない人。いつもそんな父の影で、父の言うことをおとなしく聞いている母はとても従順で依存心の強い人なのだと思っていた。

父はまだ50代の現役サラリーマンのうちに亡くなった。 私はすでに結婚して家を出ていたし、兄もまだ20代で自分のことで精一杯。 30年専業主婦をしていた母が家のことをすべて仕切ることとなった。 あと何年かして父が定年になったらゆっくり夫婦で旅行でもできただろうに、そんな機会もないままだった。

そうこうしているうちに私は渡米。母の話し相手をしてあげることもままならなくなってしまった・・・のだが、ここで母への見方が大きく変わった。 母がNHKのラジオ講座で英会話の勉強をはじめたのである。 アメリカに来る日のためである。 そして2年半後、ほんとに一人でロスアンジェルスまでやって来た!! 母にとっては生まれて初めての海外旅行なのにパッケージツアーではなく、自分で航空券を手配して、たった一人でアメリカまで来てしまったのだ。 アメリカ滞在中も、メキシコ料理やベトナム料理などの見慣れないものにも臆せず挑戦。 この人、見かけによらず前向きで、なかなかのチャレンジャーなのでした。

その後も私が日本にいる時はチョコチョコと一緒に旅行したりしています。 何年かのサイクルで遠くに離れて暮らすことになる娘としてはそれくらいしかできないけど、いつまでも元気で、たくさん一緒に遊ぼうね。

それにしてもそろそろ家に着いた頃じゃないのかなあ。 電話くらいしてよ~!!

P.S. ・・・と書いて数分後、無事到着の連絡がありました。 よかった、よかった!!
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by KURIinHK | 2004-10-06 18:10 | 私のこと/思い出
本人登場!!
a0025439_1785218.jpgかなり時代がかった写真ではありますが・・・

香港にある私の写真で一番古いものです。 幼稚園の入園式か小学校の入学式か、本人にもわかりません。 場所は実家の前。茅ヶ崎の海のすぐ近くです。
バックの松林は今もかろうじて残ってはいるけれど、松林の周囲はマンションだらけになってしまいました。 後ろの車の古いこと・・・^^;

子供の頃の写真は全部こんなふうにしかめっつら。 愛想のないお子や・・・

ふと思ったけど、うちのスキャナ(香港で買ったHP)なかなか良いじゃん・・・
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by KURIinHK | 2004-08-25 17:12 | 私のこと/思い出
オリンピックの時期だから
誰もが皆、自分の中の「日本人」を意識するこの時期。

海外に暮らしていると時に強く「日本」を振り返る。 私と知り合うことで初めて「日本人」を知る人もいて、その人たちの中では私=日本人というイメージが固まることもある。

以前カリフォルニアの南の端のSan Diegoという町にいた。そこは国境に近いためメキシコ人が、そして温暖な気候のせいか、はたまた太平洋第7艦隊の母港National Cityを抱えているためか東南アジア系の人たちが、とても多い町だった。 そんな町で英語を母国語にしない人たちを対象とした英語のクラスESLに通っていた私は畢竟そういった国々からの移民の人達と接する機会が多かった。

同じクラスにフィリピン人のおばあちゃんがいた。 私の顔を見て屈託なく「私も日本語を少し知ってるよ」と言って笑った。「こらこら」と「まてまて」・・・。 戦争中、まだ若かったおばあちゃんを日本人の兵士がそう言って追いかけたから覚えたのだそうだ。 「まあ、ジャングルに逃げちゃえば、こっちのもんだからね」とおばあちゃんは言った。 戦争について何も知らずに育った自分が恥ずかしくて泣いた。 アジアの中での日本の微妙な立場を初めて意識した瞬間だった。

台湾人の日本語の上手な、すごくやさしいおじいちゃんとおばあちゃんは、私のことをとてもかわいがってくれた。 特におじいちゃんは、どんなに遠くにいても私を見つけるとにこにこと手を振ってくれた。おじいちゃんは戦争中東京に住んでいたのだそうだ。 ある日食料の買出しに八王子に行った帰りに大空襲に見舞われ、おじいちゃんは生き埋めになった。 でもおじいちゃんは、八王子の農家の人が分けてくれた卵を持っていたおかげで生き延びた。 おじいちゃんは「あの農家の人が、自分が台湾人だからといって何も分けてくれなかったら、自分は今ここにはいないはず。自分は日本人の優しさに助けてもらったんだ」といつも言っていた。 私の知らない、たった一人の日本人の優しさが、私と世界をつないでくれることがあると意識した瞬間だった。

今また日本を離れアジアの片隅で暮らしている。
私も何かいい形で香港の人達と日本をつないでいくことができたらと、ちょっとだけ前向きに日々を送っていこうと思う今日この頃。
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by KURIinHK | 2004-08-17 20:36 | 私のこと/思い出
ノスタルジー
a0025439_9164169.jpg今朝のasahi.comにJR東海道線のオレンジと緑の車両が2006年1月で姿を消すという記事を発見。

茅ヶ崎で育ち、しかも両親揃って静岡県の出身の私には、かなり大きくなるまで「電車=湘南電車」だった。 夏におばあちゃんのところに遊びに行くのも、お正月に家族揃って川崎大師に初詣に行くのも、いつも湘南電車だった。

中学・高校は電車通学。朝の二つドアは混んでいて嫌いだった。降車駅の階段の位置に合わせて、いつもグリーン車のすぐ前のドアのところに乗ったっけ。大学に入って品川で山手線に乗り換え。横浜で座れるかが大問題。なにしろ乗っている時間が長いので、電車の中でレポートを書いたり語学の宿題をしたりもしたなあ。
勤めはじめて東京駅までの利用となった。とにかく忙しくて、毎晩10時過ぎの電車で死んだように眠って帰った。夏の金曜の夜、ボロ布のようになって東海道線に乗ってあたりを見渡すと、小さな旅行バッグを提げた人たちが缶ビールやお菓子を広げていて、自分もそのままどこかに行ってしまいたくなることもしばしばだった。上司のお土産のドライパパイヤがめちゃくちゃ不味くて、忘れ物のフリをして網棚に載せたままにしておいたこともあった(笑)。

時が流れて、二つドアの車両が普通電車から姿を消し、四人がけのボックスシートが近距離電車型の横にずらりと並ぶシート(この型のシートは爆睡しにくい!)に変わり、アクティや湘南ライナー等の快速電車ができ、そして「新宿行き」がお目見えし・・・。「中長距離電車」だった湘南電車もすっかり都会型の電車に変わってしまった。そしていよいよオレンジと緑のあの車両ともお別れ。
湘南が東京に飲み込まれてしまうようで、少しさみしい昔の「湘南ギャル」がここに一人。
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by KURIinHK | 2004-08-06 09:53 | 私のこと/思い出
スイカの思い出~いとしの茅ヶ崎
夏といえばスイカ! スイカを見ると思い出す夏の光景というのは、誰でも一つ二つは持っているのではないでしょうか。

私は神奈川県茅ヶ崎市の海まで歩いて3分(今は大きな歩道橋ができたので4~5分かかるかも)のところで育った。 サザンの曲の光景さながら、 鎌倉・逗子方面から来ても、小田原方向から来ても「江ノ島が見えてきた~、Kuriの家も近い~!!」だし、えぼし岩はいつも視界の片隅にあり、パシフィックホテル(今はもうない)のプールには子供の頃何度か行ったことがある。
そんな場所なので、子供の頃は夏というと父の会社の同僚たちが大挙して我が家を訪れた。ちょっとした海の家、もしくは海辺の保養所である。 普段は両親と兄・そして私の4人家族なので、一つ買うと持て余してしまうような大きなスイカが、この時はお風呂場の水の中にプカリと浮かべられる。 水着にバスタオルをひっかけた姿で海に向かい、散々遊んで砂だらけのまま家に戻り、庭の水道で頭から水をかぶる。そのまま、縁側に座ってスイカをパクつく。種はもちろん庭にペッペ。 
大人数の大人に囲まれ、子犬のように撫で繰り回されチヤホヤとかまってもらえる夏の週末は、私にとっては一大事であった。今にして思うと、おそらく1泊かせいぜい2泊だったのだろうし、ひと夏に2回くらいのことだったのだろう。 泊まった人数にしてもリビングにごろ寝した人が数人いたのを覚えているが、それにしてもせいぜい6~7人だったに違いない。

いつのまにか、あの頃の両親の歳も追い越し、スイカを丸ごと買うこともなくなってしまった。茅ヶ崎には今、母と兄が暮らしている。
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by KURIinHK | 2004-08-01 10:37 | 私のこと/思い出